「我々の主張にまあまあ共感しているけれど、同時に何となく付いて行けない感覚も持っている」人について

Facebook で野木さんが重要な問題提起をしています。ブログに転載します。

高橋さんの報告の中に、「チラシを受け取ってくれない人は我々のことをどう見ているのかというテーマで意見交換した」という一文がありました。この話のきっかけを作ったのは私なので、忘れないうちに……。

まず、私は「チラシを受け取ってくれない人」について話を始めたわけではありません。正確に言うと、「我々の主張にまあまあ共感しているけれど、同時に何となく付いて行けない感覚も持っている」人について……です。

例に出したのは30歳を過ぎたばかりの会社勤めの女性。知り合いの娘さんです。彼女はフェミニストで、マレに会う機会があるとよくそういう話をするのですが……先日はそこから派生して安倍政権の話などもした次第。

まず基本的情報を提供しておきますと、彼女は安倍政権(と言うより自公政権)に対しては否定的。マルキシストではありませんが反共というほどではなく、政治的立ち位置としては「民主党系に入れたり、社民党とか自由党系の人が出ていればその人に入れたり。共産党に入れたこともあるし」という程度。まぁ、よくいる反自公無党派層ですね。反原発や核兵器廃絶などの署名のほか、むろん「安倍改憲NO」の署名もしたそうです。

そういう女性なのですが、いろいろな会の人達による駅前などの街宣に対しては、「どうしても引いてしまう」と言うのです。「チラシをもらってちょっと聞いてみようかなと思うことはあるけど、どうしても話しかけられない」と。ついでながら……デモにも行ければ行きたいと思いつつ、SNSの動画などを見ると腰が引けると。

この話を聞いて、OLDsの仲間からは「折伏されるんじゃないかと思って、それが怖いのでは」という意見が出されました。ワーワーと頭ごなしに言われて、いつのまにか引きずり込まれたらどうしよう、という怖さでしょうか。

確かにそういうところもあるかも知れませんが、実は私の意見は少し違うのです。

私は──これは私の感覚に過ぎないのですが──彼女は街宣している人達に違和感を持っているのではないかと感じました(私がすぐ言うところの「微かな違和感」です。笑)。その理由は、だいたい4つに分けられるかと思います。

1つ目は、特殊な言葉がポンポン出て来ること。別に左翼的な言葉、というわけではありません。あまり日常会話では使わない言葉や、文字でないとわかりにくい言葉、と言った方が近いでしょう(※注)。

本を読んだり講演などで聞く(つまりこちらが積極的に吸収しようとしている時)ならスッと入るけれど、街頭で何気なく耳をかすめただけでスッと(前後と合わせて)入ってくる言葉ではない。

むろん、時には本当に「特殊な言葉」が出て来ることもありますが。

そういう言葉を街頭でオジサンオバサンが叫んでいると、「この人達、誰に対してアピールしているんだろう」とフッと醒めた感じを持ってしまう。つまり「言葉が通じる仲間内だけで盛り上がってるんじゃないの?」という気分になるわけですね。

※注/適切な例かどうかはわかりませんが、たとえば……ファシズム政権、データの恣意的操作、高度プロフェッショナル制度、戦前の治安維持法、総理官邸、日本会議、戦犯合祀、有識者会議、琉球処分、エトセトラ、エトセトラ。「〇〇という言葉がありまして」という感じで説明付きで語られればまだしも、いきなり出て来ると頭の中で文字変換しにくいもの。ちなみにこれらは彼女が挙げた言葉ではありません(彼女自身は挙げなかった)。私が勝手に想像してものです。

2つ目は先の理由と若干繋がるところもあるのですが、彼女いわく「内容以前に、言葉がとても険しくて気持ちに刺さる。もう少し柔らかい、優しい言葉を使ってほしいと言っては、ダメなのかしらん」。

辞めろ、倒せ、バカ野郎。そういう(ある意味で)暴力的な言葉には、どうしてもなじめない。そういう感覚を持つのは、自分が母親になろうとしており、柔らかい語りかけを大切にしたいと思っているからかも知れない……そうです(彼女は2年ほど前に結婚して、現在妊娠4か月。いや、そろそろ5か月近いのか)。

私はその問いかけに対して、答える言葉を持ちませんでした。それをとても悲しく思います。

3番目は「街宣のアピールを聞いていると、自分が責められているように感じて息苦しくなる」。

こんな政権を許してはいけない! 〇〇日、国会前に集まりましょう! ……等々の訴えはとてもわかる。でも私は仕事もあるし、妊娠してて辛いし、何の行動もできない。それっていけないんでしょうか。署名活動したり国会前に駆け付けないと、私は安倍政権に加担したことになるのでしょうか。そんなことないよね? 違うよね? 違うって言って下さい。……とても心苦しくて、私は街宣から目を背けてしまうのです(←とは彼女は言ってない。この辺は忖度であります)。

で、4つ目。最後の理由は……。「同じプラカードを掲げて」「同じ言葉を絶叫する」図にどうしても引いてしまうのだ、と彼女は言っていました。「仲間内」感に満ち満ちていて、それにササッと乗れない(ノリの悪い)人間はお呼びじゃないよとソッポ向かれたような。

実はこのあたり、私は痛いほどわかるのです。こんなこと言うと叱られそうですが、私は幟旗というやつがきわめて苦手。いえ、むろん否定しているわけではありません。その意義は充分に(十二分に、と言った方がいいかも知れない)承知していながらも、どうしても苦手感は拭えないのです。国会前などで様々な組織の幟旗がへんぽんと翻る様子を見ると胸苦しくなり、そのまま回れ右して帰ってしまいたくなることもしばしば。てなわけで、OLDsの旗が見えてもなるべくつかず離れずの位置を保っておりまする(もうほんと、OLDsがもうちょっとキチンとした組織であれば、弾劾され除名されても仕方ない存在。ごめんなさいね)。

かなり話は逸れてしまいますが、「肉球新党」というのを皆さんご存知でしょうか。その存在を知ったのは2年ぐらい前かなあ。何かのデモで「我が輩は猫である」ふうのプラカを掲げた人に出会って話をしたのがきっかけで、その後もデモや集会で会うたびに軽く言葉をかわしていました。ネット上の自然発生的な繋がりということでしたが、あるデモで幟旗が掲げられ、「猫たち、行くよ~」というリーダー(?)の声に従って同じプラカを掲げた人達が集まるのを見て、いっぺんに白けました。

幟旗をはじめ、同じプラカード、リードする人に合わせての一斉コール。どれもすべてプラス評価したいと思いつつ、その片隅で「左の全体主義じゃん」と忌避する自分がいる。

それでも……幟旗や統一プラカやコールが嫌でも、それは個人的なささやかな感情に過ぎないと押し込めてデモや集会に参加するのは、「日本という国がファシズム国家になりおおせるのは絶対に阻止しなければならない」という、いわばやむにやまれぬ思いがあるから。その切羽詰まった思いと、「運動に対する違和感」の間には、さほど広く深い淵があるわけではありません。そのちっちゃな淵を、あなたはどう見ますか。

このミーティングで私はこんなふうに発言しました。「少数精鋭。ついて来れない人間はついてこなくていい」、もっと言えば「武力革命を目指す」といったことであれば、迷える子羊を(という表現はしませんでしたけれど)ザックリ切り捨てるのもいいでしょう。と言うより、それが正解でしょうと。

そういう考え方も私は否定しませんし、むしろ拍手を送りたいという思いも心のどこかにあります。

しかし……できるだけ多くの人を巻き込んで、亀のように歩みながら次の世代にバトンを渡すことを希求するならば、「微かな違和感」を持つ人達を大切にしたい、大切にしてほしいと私は思います。そしてすべての対話は否定形からではなく、肯定形から入って欲しいと。

またしてもついでに言いますと、この「微かな違和感」は年齢性別によって区切られるものでもない。「全体か個人か」という、ギリギリの瀬戸際で選択を迫られた、すべての人々の感覚に訴えるものだとも思っています。私の感覚はOLDsの設立理念には反するかも知れないし、さらに言えば私自身がOLDsの異分子であるかも知れません。それでも排除しないOLDsに、感謝感激雨あられ。あっ……ヒトが少ないせいかな? 石、投げないでね~。

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